横浜アロハピラティスは、グループレッスン・プライベートレッスンを通して心身を変えていきます。

アロハな心で行う陽気なピラティス

Aloha-Pilates

横浜市神奈川区西神奈川2-5-17 RAPIDE2F 
東白楽駅徒歩2分、東神奈川駅徒歩8分
(東神奈川駅より徒歩1分に姉妹店あり)

営業時間

9時~22時(定休日なし)

ピラティスの歴史

アメリカからはじまり、今は世界中で広がっているピラティス。

もともとは第一次正解大戦で負傷した兵士のリハビリの為に、ジョセフ・ピラティスが考案したものになります。

プロゴルファーや野球選手などのトップアスリートから高齢者のリハビリまで、解剖学からなるその合理的なフィジカルエクササイズが高い評価を受けています

そんなピラティスの歴史をおっていきます。

幼少期

ジョセフ・ピラティスは

ドイツ、デュッセルドルフ近郊の小さな町、メンヒェングラートバッハで生まれる。

病弱に生まれ、四人兄弟であった彼はくる病、喘息、リウマチ熱などに苦しむ幼年時代であった。

そんな病を克服するため身体訓練法やスポーツ(ボディビルディング、体操、スキー、ダイビングなど)を行い、14才になるころには解剖図のモデルになるほどの健康体になる。

父は体操選手、母は自然療法師であったことが、その後の彼の人生における運動と健康という分野の研究に影響したようである。東洋と西洋両方の身体訓練法を研究し、とくに身体と心を完成させそれを維持するという、古代ギリシャとローマの哲学に大いに触発させた。

第一世界大戦〜

第一次世界大戦二年前、ピラティスは弟と共にイギリスに仕事を探しに行く。

正確な文献はないが、サーカスで働いていたと言われている。

1914年第一次世界大戦勃発。

イギリスで捕虜になり収容所に抑留される。

当初はランカスター、そして後にマン島へ移る。 この期間に仲間の捕虜の体力と全般的な健康の回復を手助けすることを始める。

これが後にコントロロジーと名付けられる身体調節法(現在のピラティス・メソッド)の始まりである。

また、ベッドからスプリングを取り出して、寝たきりの患者の為に運動用の器具を作り上げた。これは彼が最初に発明した器具である。

1918年に世界的な規模でインフルエンザが流行し、数万人のイギリス人を含む何百人もの命が奪われる中、彼の同朋たちは一人もこの病気に倒れなかったという。

アメリカへ移民、妻クララと出会う

1925ドイツ政府から新しい軍隊の訓練を頼まれるが、当時のドイツの政治的傾向を好まず、アメリカに移民することを選ぶ。

未来の妻クララと出会う。

(クララはジョーの3番目の妻・・)
 

◆クララ・ゾイナー・ピラティス◆
1882-1997
ピラティスメソッドの素晴らしい指導者として活躍し、人間的にも優れていてとても優しい人だったようです。気難しいジョーとは対照的で、いいペアだったようです。

指導者としては優れていましたが、クララ自身がピラティスエクササイズをしているところは、誰も見たことがないそうです。。。そして残されている写真もそうですが、いつもナース服で指導してたそうです。

ちなみにエルダーのひとり、ロン・フレッチャーはクララの弟子でした。

アメリカでピラティススタジオをopen

1926年、ジョセフ・ピラティス43歳のころ、クララとともにニューヨークに到着、スタジオを開設。

同じビル内にはニューヨークシティバレエのスタジオなどがあったこともあり、ピラティスメソッドの評判は広まり、当時の顧客としてはダンサーや医者から送り込まれた患者たちのほか、セレブたち、映画スターなどのほか、ビジネスマンもピラティスのスタジオに通う。

当時のアメリカのダンス界はバレエもモダンダンスも活発になり始めたころで、かの有名なジョージ・バランシンは教え子がケガをするとジョーのスタジオへ送り込んだそうです。
 

布教活動と研究に務める

1945年、ジョセフ・ピラティス62歳のころ、『リターン•トゥ•ライフ•スルー•コントロロジー』を出版。

自分のメソッドを熱心に宣伝する。

医師たちに向けた実践講習を行ったり、ニューヨーク地域に配備された軍隊を指導したり、運動のパンフレットを作ったり、オリジナルの器具をメイシーズ(百貨店)で土曜日に販売していたりしたという。

親友であったレノックスヒル病院の整形外科局長ヘンリー•ジョーダン医師は、ピラティス•メソッドの熱心な支持者だった。ジョーダン医師は多くの患者をピラティスに紹介した。またピラティスの教え子の一人であるカローラ•トリエーをそばに置いた。彼の生徒の何人かは優秀な外科医になり、患者をピラティスやカローラ、その他の若手の教師の下へ送った。

1950年代

売り込みの甲斐なく、彼のメソッドは医療や教育制度の主流とならなかった。医学会の無理解にピラティスは深く悲しんだという。

 

1967

80代のほとんどを研究と指導に費やしたジョセフ•ピラティスは86歳でこの世を去る。

 

ジョセフ・ピラティスの死後

1968

イブ•ジェントリー(19091994)がニューメキシコ州サンタフェにイブ•ジェントリー•スタジオを開設。

1971

ロマーナ•クリザノウスカがピラティス•スタジオを引き継ぐ。 同年、ロン•フレッチャーがロスアンゼルスのビバリーヒルズにロン•フレッチャー•スタジオ•フォー•ボディ•コントロロジーを開設。 多くのハリウッドのセレブリティーをはじめとする顧客を集め人気となる。

1976

クラーラ•ピラティス、この世を去る。彼女は1970年までスタジオを続けた。

1983

サンフランシスコのセント・フランシス・ホスピタルの著名な外科医であり、スポーツ医療とダンスリハビリテーション部門の長であったジェームス•ゲーリック医師は、初めてのダンス•メディスン•クリニック(ダンサー専門外来)を作った。彼はロン•フレッチャーに協力を求め、初めての医療的なピラティスのプログラムを作り、病院にピラティスの設備を設けた。

 

1990年代

コントロロジーは”ピラティス”としてさまざまなメディア等で取り上げられ、次第にアメリカ各地に浸透して行く。また海外へも広がり始める。

19961

”ピラティス”という言葉を商標登録するか否かで集団訴訟がおきる。

200010

裁判所の判決により商標登録はキャンセルとなり、”ピラティス”は『普通名詞』となる。その後もコントロロジーはピラティスという名前で知られるようになり、たくさんのピラティススタジオができ、ヘルスクラブも競って採用し、さまざまなバージョンの器具が作られ、ピラティスのインストラクターを養成するコースが各地で開催される。

現在

世界中の主要国で教えられており、ピラティス人口は1500万人を超える。 ニュ―ヨークの八番街、939番地の2207号室にあるスタジオは、ピラティスのメッカとして今でも運営されている。